今日は、箱庭的”AUDIO STYLE”流、クラシック音楽の歴史的名盤、定番の存在意義について解説してみます。考えてみると、僕がこれまでこのBlogでCDやSACDを紹介する際「歴史的名盤」だからという理由で紹介したことはあまり・・・と云うかこれまで殆ど無かったと思います。と云うのも、そもそも正直なところ僕は世間で持て囃されている歴史的名盤というものにあまり興味がありません。そしてクラシック音楽ファンの主流派リスナーとはやや毛色が異なる方向からクラシック音楽を楽しんでいます。
クラシック音楽の演奏家を志した以上、子供時代にその手の録音には自然に触れていて、家庭で日常的にクラシックのFMラジオやTV番組を流していれば、名盤、名演奏を否応無しに耳にしてはいました。またインターネットの無い時代に一通りのクラシック音楽を学習するとなると、各メジャーレーベルから発売されていた名盤100選CDコレクションなど、教科書的な録音全集を通して、世間一般で「名盤」と呼ばれる演奏にも多く触れています。そんな形でクラシック音楽界の権威、評論家、批評家を通して選ばれた「歴史的名盤」・・・いつの間にか神格化されている演奏を色々と聴いていると、正直な感覚として、必ずしも自分自身が良い演奏だと感じるとは限らない・・・と云う現実に割と早いうちから気付かされることになります。。。
クラシック音楽と権威主義
クラシック音楽のジャンルは、作曲家や演奏者に対するある種の神格化や権威付けが強烈に浸透している世界です。解釈は本来個人の自由である筈ですが、クラシック音楽には何故かそれが学問であるというような風潮があり、その結果、「音楽を知っているつもりの人」と「良く知らない人」との間に生まれる知識や経験のギャップから、上下意識や権威付けが生まれやすい側面があります。要するに、肩書きのある誰かが良いといった演奏や演奏家を、判断に自信のないリスナーの多くが、あの権威が絶賛しているのだからと、権威へ迎合して必要以上に神格化する傾向があります。そして、個人の感覚的な好き嫌いなどは持ち出すまでもなく、皆が解釈をそこに合わせようとするのです。
メディア上の権威が太鼓判を押すことで、いつの間にかクラシック音楽のある種の録音や演奏が神格化され、作曲家や奏者の格付け的なものが暗黙の了解として醸成されていきます。これにはコンクールでの成績やメディア出演、大手音楽レーベルでの契約、演奏会場の格式、チケットの値段など含め、商業的な側面からブランド価値を高める意図が裏側で働いた結果と思える部分も実は少なくありません。
そし多くのクラシック音楽のリスナー側も、権威主義、評価主義に迎合する事で、上等な音楽を正しく知っていると云う安心感みたいなものにも結びついたりして、クラシック音楽独特の閉鎖的価値観や、特別意識みたいなものが生まれるのかなと感じています。クラシック音楽のハイエンド思想とでも呼んでしまいましょうか・・・(滝汗)
僕は基本的に無闇に他人の評価に同調したり、権威に迎合することが嫌いです。そして必ずしも名盤に迎合しない音楽的感性には、自分なりに自信を持っています。例えば、この箱庭的”AUDIO STYLE”を始めた頃に書いた記事で、相互リンク先で推奨していた名盤、バーンスタインのマーラー交響曲第5番を、気持ち悪くて聴けない云々とのたまい、絶賛していた皆さんに水を差しつつ混乱させた事があったように・・・(滝汗) ※バーンスタインそのものは決して嫌いではないです。
世間で通説となっている名盤や名演奏は本物か?
これまで名盤、名演奏、と呼ばれているものが、多くの場合、確かに優れた演奏である事は否定しません。やろうと思えば、ある種の知的テクニックとして、客観的に名盤が名盤たる所以の蘊蓄を語ったり、それらをセレクトしてBlogで紹介することも可能でしょう。ただ、個人として正直にその演奏が好きか?と問われた場合、それはアルバムによって種々様々なのも事実です。実際には、名盤と呼ばれているものでも苦手な演奏はありますし、嫌いな演奏家も苦手な楽曲もある。また、良いのは判るが感動出来ない、内心ピンと来ない演奏も沢山あります。
ここでもし、尺度となる音楽的価値観が所詮他人の作った物差しのお仕着せであったり、自分自身の音楽的感性に自信がないリスナーの場合、既に権威付けされた世論と異なる解釈を披露するのは極めて勇気が要ると思います。それでもクラシック音楽を聴き続けるにはどうすあるべきか?ある種の権威性を信じて疑わない聴き手になるか、むしろ自分の感性を疑って自己否定をしつつ、クラシック音楽は難しいと尻込みしてしまうか?馬鹿にされることを恐れて誰にも好みを語れない人になるか・・・そんな所ではないでしょうか?
個人の価値基準は「好きor嫌い」でも良い
どうして僕が必ずしも名盤に迎合しないのか?第一、僕には世間で「名盤として評価されている」事実以外に、元々自分の中に音楽の「好き嫌い」の明確な基準があるからです。
僕の場合、クラシック音楽が好きで自ら進んで聴ていてる以上、客観的な演奏技術や音楽の解釈、表現の深さや濃さ、音楽的な完成度よりも、他者にどう思われようと、それら以前に、生理的、直感的な「好み」「好き嫌い」の方を大切にしています。だから、CD、SACDを購入する際に、世間で名盤と呼ばれているから等と云う理由で手にすることは滅多にありません。むしろ、名盤ですか・・・何時でも何処でも聴けるから別にいらないわね!となる事が多いです(滝汗)
権威主義的な価値観のリスナーからは、趣味がイロモノ系、変わり種のたい焼きと揶揄されるかも知れませんが、マイナーな演奏家や若手の演奏家の録音であっても、自分自身が気に入ればとことん集めています。そもそも、これらは流通量が限られ、二度と出会えないかも知れない一期一会の演奏も多いですから。僕自身は、間違いなく上手だけれど、生理的に好きになれない名演奏よりも、下手くそでも個人的に好感が持てる演奏の録音を手元に置きたいと思っています。。。
名盤、名演奏とされる本質は、濃さ、個性の強さにある
ちなみに、世間的に名盤と呼ばれるアルバムの多くは、良くも悪くも「濃い」演奏が多いです。この「濃い」という部分は、裏を返すと癖が強く、本来なら生理的な好き嫌いが分かれて(評価が二分されて)当然だと思うのです。たとえば、名演奏家であっても、人間的に、生理的に苦手な演奏家の濃密な演奏に触れた時にどう感じるか?自分自身の内面と向き合ってみてください。
クラシック音楽には知識と経験に基づく判断のポイントみたいなものがあり、ある程度の経験を積むことで、知的、論理的な解釈を交えつつ、感覚的なインパクトの強さからも、演奏の技術水準や解釈の細部からも、音楽的なレベルの上下をある程度客観的に判断することは可能です。音楽コンクールなどは、そういった一定の集合知、経験知を元に、上位の演奏者や教育者、有識者が順位を判定します。とは云え、人間は本質的に客観ではなく主観で音楽を感じている訳で、奏者と気質が合わない個々のリスナーにとっては、名演奏と呼ばれるものが時に好きになれないとか、音楽として生理的な不快感・・・気持ち悪さ、嫌悪感を感じる場合があっても致し方ないと思うのです。・・・或いは、嫌いじゃないのだけれど疲れるとかも。
ある人々に強烈な同調感やシンパシーを与える演奏というものは、裏を返せばそうでない人からすると不快な演奏だったりしてもおかしくない。音楽には万人に認められ、受け入れられる名演というのもありますが、クラシック音楽の世界で名盤と呼ばれているものの多くは、果たしてそうかしらと?誤解を恐れつつ本音を云うと、その多くは、ある種の商業主義・・・マーケティングによって権威化された、特定の人種が好むスタイルの演奏が、名盤、定番として権威的にもてはやされているだけではないかな?と感じてしまう事も多々あるのです。
名盤を知っていて評価できると云うのは、クラシック音楽趣味という狭い世界の中で、ある種の知的、社会的ステイタスの誇示にも繋がるのかも知れません。しかし僕自身はたとえそれが名盤でも、嫌いな演奏や、好きになれない音楽を、さも良き理解者であるかのように蘊蓄でもって語ることは出来ないし、解りもしないのに解ったように振る舞うつもりもないし、振る舞いたくもない。だからといって、自分が理解できない音楽を、講釈垂れて否定するつもりもありません。
音楽の評価は、権威主義、商業主義よって巧みに創作されたもの
更に、こういった歴史的名盤至上的な価値観で気になるのは、そういった過去の演奏家や作曲家が過度に持て囃されることで神格化される点です。神格化しないと正当化できなくなるからなのかもですが、実際には演奏家も作曲家もタダの人間です。人格の偏りもあるし駄目人間も少なくない。海外の演奏家について、日本では特に巨匠とか神様扱いをしたりしますが、同じ人物の人間性や私生活の滅茶苦茶さや音楽面での軽薄発言を同国人の先生から聞かされて、現地での人としての地に落ちまくりの評価に、予言者は故郷では敬われないと云うイエス・キリストの言葉を思い出したりするのです。作曲家が主語の場合も然り、彼らは決して神ではない。その前に跪くように同一曲の演奏を並べて、演奏の上下を論じることに本当に意味があるのでしょうか?
それから、人間は時に本人が思っている以上に表面的だと云うこと。特に常日頃から権威的な見方をする御仁の場合は尚更怪しい。クラシック音楽の世界でも、美術の世界でも、過去、当人の存命時にはその音楽会だの美術界だのというお高く止まったコミュニティで評価されず無名だった作品が、死後にとある切っ掛けから脚光を浴びて再評価されたり、或いはその時代に成功し、名を馳せたアーティストや作品の評価が、後の時代には地に落ちたりします。
その評価再考の引き金になるのは、ある種の評論家の発言だったり、後のアーティストの言葉や発掘行動だったりする訳ですけれども、そんな状況で現代の一時、名盤や名演奏家と言われるものが本当に普遍的なものと云えるのでしょうか? 第一、それらの権威的評価に靡いて数的評価を左右する大衆の質は、いつの時代もそうそう変わるものではないでしょう?
基本的に僕自身、大衆に評価される音楽と云うものには懐疑的です。その「時代の空気」を代表するという意味合いは別として、少なくとも音楽的に見れば、必ずしも音楽が質的に優れているかどうかでレコードが売れるわけではありません。大衆の支持、レコードの売り上げならAKB48やモーニング娘はあらゆるクラシック音楽を超えた最高の音楽って事になる。クラシックのリスナーはそんなにバカじゃない?・・・いやいや同じ人間です。ただちょっと高いプライドを振りかざしてはいますが、平均化された判断力なんてそれ以外の人間との違いはありません。むしろ、勘違いとプライドが服を着て歩く薄っぺらい連中といったら袋叩きにされちゃうかしら?ここまで言う以上、それはお前だろってツッコミは甘んじて受けますけれども・・・\(^o^;)/
音楽がヒットする本質はいつの時代も「わかりやすさ」
実は音楽がヒットする本質はいつの時代も「わかりやすさ」にあります。これはクラシック音楽でも本質的に違いは無く、その時代にリアルタイムに高評価されるケースは、当時の大衆・・・多くのリスナーにとって、何かしらの単純化された判りやすさを伴う演奏表現であること。これこそが核心になっていると感じます。逆に云うと、どれだけ音楽的、芸術的に優れていても、一瞬でわかりにくいものや、より深く高度なもの、綿密すぎるものは、それを理解出来るリスナーが少なくなる故に、マス商業主義が上位の世界ではそれほど評価されません。
↑で「名盤、名演奏とされる本質は、濃さ、個性の強さにある」と書きましたけれど、要するに味付けが濃くて自己主張の強い太書きの演奏は、ある意味で誰にでも「わかりやすい」のがポイントです。
前述したように、商業権威のベースに載っかり、名盤を定義する人、権威付け出来るつもりで居る人は元々数が少ない上に、自己判断の出来ない浅いリスナーほどその権威性になびきやすい。しかもその権威性の元となる評論家、批評家諸氏だって、元演奏家、音楽家崩れならまだしも、なんだか良くわからない、本当は楽譜も読めない「聴くだけの人」だったりする事も少なくありません。要するに、世界中の権威があるとされるメディアで、いつのまにか「評論家、批評家の肩書き」を身に纏った、ただの人の戯れ言でしか無い・・・種を明かすと、権威性の本質は業界とメディアをバックに商業コピーライターに創作された、うわごとみたいなものでは無いかしら・・・なんてね\(^o^;)/
本質的な価値判断を、音楽を解っていそうな権威へ大衆はどうしても委ねてしまう。特にクラシック音楽のように本来の娯楽から離れて、時を経る事で権威と学問の風味を帯びた世界では、そういったお仕着せの、上から目線の価値観が強くなります。音楽を体感、主観としての生きた芸術として感じる前に、「音学」知識として頭で受け止めるような聴き方や、小手先の技術論、言葉遊びの解釈を是とする表面的で感性の貧しい知識人。そしてそんな一部の批評家の、一方的な価値観のフィルターを介しつつ、大小様々な商業主義的販促キャンペーンの恩恵を浴びながら、歴史的名盤が出来上がる・・・と云うのは些か斜めに見過ぎかしら?
権威に囚われず、もっと自由に音楽を選ぼう
話を元に戻します。歴史的名盤と呼ばれるものを否定しているのではありません。そう呼ばれている録音の中には、個人的にお気に入りの演奏も多々ありますし、ウゲェ吐きそうwと感じる演奏もあります。疑問に思うのは音楽それ自体と云うより、権威主義の元に神格化して絶対視する一部クラシック音楽リスナーの受動的姿勢です。そして、ある録音が歴史的名盤と呼ばれることの価値について、僕自身は個人的に重きを置いていないのです。
だって、歴史的名盤より趣味に合う、好感が持てる演奏が実際に世の中には沢山あります。そもそも音楽ってのは、一流の名演奏家と呼ばれる大家のコンサートで、その日、割と酷い演奏にもかかわらず、(聴く耳に乏しい)ミーハーな聴衆による拍手大喝采に思いっきりシラケたり、たまたま手に入ったチケットの、無名の演奏家による、技術面では拙くても感動的だったり、音楽への誠実な演奏に感動したりするものだからです。
歴史的名盤の良さも知らずに、マイナーなアルバムや最近の安っぽい演奏を評価するなんてバカだねぇと思われても、その価値観は本当にあなたの価値観ですか?他人に教えられたお仕着せの権威主義的価値観をまるっとコピーしているだけじゃないの?と問い返したくなるのです。
個々人にとっての真の名盤=必ずしも世間の名盤とはかぎりません。
TOWER RECORDSやHMVで星の数ほど売られている、知名度が殆ど無い安物の輸入盤の山。名盤とは呼ばれない、名演奏家でもない、再プレスだってされるか分からない。そんな中に、頬擦りしたくなるような名演や、謎の高音質盤がちらほら隠れていたりする。それがクラシックレコード、CD、SACD集めの醍醐味ではないかしら?・・・少なくとも管理人にとってはそう。
無人島に何枚かCDを持って行くとしたら・・・
きっと僕自身が無人島に何枚かCDを持って行くとしたら、それは、お偉い先生様の評価とは全く関係無い、自分自身が幼少期に、或いは青春時代の思い出と重なる録音のいくつかになる筈です。大体、レコードレビューにしたって、歴史的名盤の蘊蓄を並べた堅苦しいレビューよりも、有名無名を問わず、自分が好きな録音や演奏家に向けた熱いメッセージを語るネット上の素人による落書きの方がよっぽど面白いですし♪※このエントリを書いた切っ掛けは、某所で音楽教師の方にネット上のクラシック音楽の素人批評が小馬鹿にされていたからです。
むしろネット世論の良さはそこでしょう。普通に歴史的名盤を知りたければ、本屋でその手の本を買えば、有名音楽評論家がセレクトした名盤が懇切丁寧にリストアップされています。或いは今はインターネット上でもそんな権威主義的バイアスに飾られたレビューを拾うのはたやすい。でも、もうそういうのは飽きた、或いはそもそも堅苦しいクラシック音楽なんていらね~!って人々も居るわけです。ネット世論の良いところは、ロングテールという言葉に代表されるように、個人がそれぞれの想いの中にある小さな名盤にもスポットライトを当てられること。社会的評価や権威性とは関係なく、其処にはその人それぞれの生い立ちと経験に基づく評価の声がある。書き手と読み手がそこに変な権威主義を持ち込まない限り、それが時にトンデモ評論だったり電波で偏っていたとしても、余程の事がない限り僕は構わないと思うのです。
~おまけ~デジタルCDメディアの存在意義について少しだけ
ちなみにその某所を拝見して同意できるのは、OIBPのリマスターが最悪って話し。これについては諸手を挙げて賛成\(^o^;)/。OIBPに限らず、むしろARTとかSBMとか他レーベルのリマスターでも大抵、更に悲惨な事になっていますけれど。。。音楽の鮮度を重視するのであれば、元々14~18ビットで録った初期のデジタル録音を、敢えてDDCでハイサンプリング化する必要はありません。にもかかわらず20~24bitにわざわざアップサンプリングしつつデータを再圧縮して無理矢理CDに詰めるから、デジタルプロセッサーの変なキャラクターが乗っかってしまい濁った音になるのです。・・・たまにリマスターが成功しているケースもあるのにはありますけれども。
だがしかし、
「CDプレーヤーは、本格的な音楽鑑賞には適さない装置ではないか」
これには賛同できません。鉄くずとかガラクタとか、喧嘩売ってんのかこのやろう(`へ´)フンッ。リアルタイム等倍速でもメカとディスクが壊れてなければデータ自体はちゃんと100%読めていますし。読めて無いと云う人は証明すべき(# ゜Д゜)。デジタルで起こる音質変化の問題点は、各種のジッターに加えて時間軸管理の甘さやD/A変換後のアナログ的な不安定さなど、きっと別の所にあるのだと考えます。まぁ所詮これも完全には証明しづらい仮説ですから、理屈っぽい連中には受け入れがたいデムパな話ですけどね♪
(以上、初出2008年3月に書いたエントリですが、当初掲載していた他者様のブログ記事の批判的な引用は、良く考えるとかなり不穏当な行為ですし、見方によっては先方への誹謗中傷とも取れますので、内容を改めて大幅修正しました。)
コメント一覧 (2件)
pastel_piano 様
こんばんは。
クラシックは林檎に歯形を付られるくらいにしか窘めせんでおりませんが、擦り切れるくらい聴いた、とある指揮者、楽団のLP“ショスタコーヴィチ交響曲第5番”がCD化されないのは、やはりクラシック評論家や大多数の愛聴家の評価が得られなかったからなのでしょうね。。。泣
話は変わりますが、pastel_pianoさんのC4はご健在でしょうか? 私のC4はなんとか稼働していますが、これから先、部品調達等を考えると買い替えも検討している最中です。国内販売されている現行citroenラインナップには魅力的なモデルがなく、他社イタフラメーカ―に浮気するか?などと、ほくそ笑んでおります。
第九は第九にしか聞こえない
指揮者も演奏家も歌ってる人も違う筈なのに